Archives for 3月, 2015

日記

人の和は友情より始まる
中国の故事に管鮑(かんぼう)の交わりという言葉があります。管鮑(かんぼう)の交わりとは管仲(かんちゅう)と鮑叔(ほうしゅく)との交際のことをいいます。管仲(かんちゅう)と鮑叔(ほうしゅく)は春秋(しゅんじゅう)時代(今から約二千五、六百年前)、斉(せい)という国の人たちで非常に仲の良い親友同志だったのです。
若い頃二人で商売をしたことがあったが、利益を分けるとき管仲(かんちゅう)の方が鮑叔(ほうしゅく)より分け前をたくさん取ったが、鮑叔(ほうしゅく)は管仲(かんちゅう)の家が貧しいことを知っていたので決して彼を非難するようなことはありませんでした。二人は常にこんな感じで、お互いの立場をよく理解しあっていたので心が通じ合い助け合うことが出来たのです。

また刎頸(ふんけい)の交わりという言葉もあります。これは生死を共にする親しい交わりのことで、一緒に首を切られても後悔しないという間柄の交際を云います。こんな付き合いは昨今の友人関係ではまず考えられません。

しかし昔の人はこういう付き合いをしていたのです。昔と今では物の考え方も変わり全てに合理的で個人主義的な傾向の世の中ではこのような付き合いは兎角難しいようです。仲の良い友人の間柄でも分け前はきっちり折半にして喧嘩(けんか)のないようにするし平等を建て前に考えていきます。お互いの取り分が平等でなく友達より多く取ろうとしたら一瞬にして友人関係は崩壊し、そのことが原因で絶交になってしまいます。

これが今のご時世では当り前かも知れません。

でもこれでは何か寂しいですね。どうしてでしょうか。

それは友情の情が欠けているからです。甘えや憐(あわれ)み同情ではなく心から相手を信じ相手を思いやる真(まこと)の気持ち、お互いに譲り合う気持ちです。

我(われ)が我(われ)がという気持ちになると必然的に足の引っ張り合いになるのです。

人を押しのけてでも進まないと成功は出来ないと云いますが、それはうわべだけでそんな考えで例え勝利を得ても長くは続かず人の信頼も得られません。

管鮑(かんぼう)の交わり、刎頸(ふんけい)の交わりとまではいかなくとも心から相手を信じ相手を思いやる真(まこと)の気持ちを大事にしたいものですね。

一人ひとりが友情を培(つちか)い互いに労(いたわ)り合い譲り合って行く所に真の人間関係が出来るのですね。

 

月、水、金、日と総持寺境内にて鑑定しております。

予約の上お越し下さい。お待ちしております。

 


日記

 

今日はドリー7歳の誕生日です。
今年も無事迎えることが出来ました。

うれしいです。

でも月日の経つのは早いもので彼女(ドリーは女の子です)が我が家に来てくれて7年が経ったのです。
来たときは小さくて手のひら位の大きさしかありませんでした。

今では大きく成り過ぎて9キロです。
来年も再来年(さらいねん)も元気でドリーの誕生日を迎えたいと思っているのですが、世の中何があるかわかりません。

人間にもペットにも寿命があります。どんな大切な人にもペットにも自分自身にも常に死が隣合わせであることを認識しないといけません。ペットにずっと生きていて欲しい一生側(そば)に居て欲しいと執着、固執するから愛情が苦しみに変わります。

生き物の死と別れを常に意識することでその相手を本当に大切に出来ますし、ちょっとしたことで腹が立ちません。本当の愛情を与えることが出来ます。

そのことを認識して接していきますと会うごとに一期一会で有り、常に新鮮で後悔がないような時間を過ごせます。

一期一会とは茶道の精神を説いている言葉で、今日初めて人に出会いお茶を接待したとしてもそれは生涯に二度とない巡り合わせと思い、主(あるじ)もお客も供に心から親切と誠意を持ってお付き合いをすることが大切であると云う教えを述べているのです。

しかし人間社会では仲々そうはいかず、ともすれば初対面では切り口上になったり、相手を粗雑に扱ったり、疑いの目を持ったりして親しみや真心を失いがちになるものです。

それで当り前と云えば当り前かもしれません。それでは通り一遍の交際に終わってしまい全く無味乾燥で後に残るほのぼのとした温かみがなくなってしまいます。

初対面で「一期一会」であっても延(ひ)いてはそれが百年の知己(ちき)のようになり、刎頸(ふんけい)の交わりに変わっていくこともあります。そんな経験をしてみたいものですね。

私も常に死が隣合わせであり限られた時間であることを認識し人ともペット(ドリー)とも一期一会の気持ちで接していけるよう努力したいと思います。そうすればペット(ドリー)との大事な時間を過ごせると思います。

 

月、水、金と総持寺で鑑定しております。要予約の上お越し下さい。

お待ちしております。


日記

欲と強欲
人には欲というものがあります。食欲、性欲、物欲、出世欲など様々な欲があります。欲がなくなったらその時は死ぬ時だとか、意欲と希望を無くしたら人は腑抜けになるとかよく言われますが確かにそうかも知れません。人はある程度の欲がなければ人生は送れませんし誰もが持っていても決して可笑しくはありません。しかし強欲となると話は別です。無理矢理に取にいこうとする欲のことで、十分有り余った物を持っているのに、未だ不足に思い強引に欲しがる欲情のことを強欲と云います。童話の「舌切り雀」の欲張りのお婆さんはいい例です。

政治家にもそんな人がいますね。

最初は清廉潔白(せいれんけっぱく)で、国を憂(うれ)い国民のために頑張ることをモットーに出馬した熱血漢であったのが地位や権力が手に入ると段々変貌して強欲の固まりのようになり、平気で賄賂(わいろ)を取るようになってしまう。それが積もり積もって膨大(ぼうだい)なものになっていくのです。

中国の諺(ことわざ)に「蠟(ろう)を得て、蜀(しょく)を望む」と云う言葉があります。俗に「望蜀(ぼうしょく)の嘆(たん)」とも云われていますが人間の望みは果てしがないと云うことです。

ある宗教の祖は「欲は切りない(限りがないこと)泥海や。」とも云っております。欲望のあるところ権力有り、強欲のあるところに闘争があります。まさにドロドロした泥海のようなものでしょう。

世知辛い今の世を生きて行くために社会や企業は死にもの狂いの苦闘を展開しています。私たちも多分にその影響を蒙っていると云っても過言ではありません。

この世の中では権力争いや欲望があっても真っ向から否定することの出来ないことがあります。しかし欲は決して人を成長させません。大事なものを失います。

「我(われ)と言う小さな我(われ)を捨てて見よ、そこに大きな我(われ)と言う我(われ)あり。」有名な高僧の言葉ですが、実際このような心境には中々なれません。しかし私達は余りにも小さな我欲(強欲もその中に入る。)に汲々としているようです。

私も感謝の気持ち(自分が受けた恩は石に刻み、自分がかけた恩は水に流すの気持ちです。)を思い出し分相応な夢のある欲(向上心)を持ちたいと思います。

月、水、金、日は総持寺にて鑑定していますので、予約の上お越しください。お待ちしております。


日記

吉と凶は常に隣合わせにある
人間万事塞翁が馬という言葉がありますね。昔、中国の済僻地(さいへきち)に住む老人(塞翁)の飼っていた馬が突然逃げ出して隣の国に行ってしまいました。しかし暫くしてその馬は、自分よりもっと素晴らしい駿馬(しゅんば)を連れて帰って来たのです。またあるとき、塞翁の子が落馬して運悪く足が不自由になってしまいました。偶々そのときに隣国と戦争が起こり、この地の若者たちはすべて駆り出され、大部分の者は戦死しました。幸い塞翁の子は徴兵を免れて命拾いをしたのです。足が不自由になったお蔭で命が助かったんですね。塞翁は馬が逃げた時も、子供が落馬した時も別に嘆きもせず、また駿馬を連れて馬が帰って来た時も、子供が命拾いした時もさほど喜びもしませんでした。
つまり人間の吉凶とか禍福は常に人智では測り知ることは出来ず、禍いも仰々しく悲しむことはなく、幸せも殊更喜ぶこともないと云うことなのです。
人間の幸、不幸、吉凶は糾(あざな)える縄のように常に隣り合わせにあると云うか、いつ如何なるときにやって来るかわからないのです。
ですからどんな時にでも、しっかり落ち着いて物事に対処出来る心構えが必要なのです。
人間は感情の動物です悲しい時には憂え、うれしい時には喜ぶと云うのがあたりまえでしょう。
喜びは素直に表し、うれしさを感謝の気持ちで心から味わい、噛みしめることは最高です。しかし問題は悲しみです。悲しい時は思いきり泣く人や悲しみを押し殺して堪える人、酒に紛らわして愚痴る人色々な人が居ますが悲しみを後に引き摺って落ち込んでしまうと、それが潜在意識に植え付けられ極端な心身症となってしまいます。だから悲しみは辛いことですが出来る限り早く忘れるよう努力しないといけません。
塞翁の馬ではないですが、悪いことの後には必ず良いことが廻ってきます。世の中とはそんなもので吉凶は常に順繰りに輪廻し、人生の流れに添って出現するものです。

月、水、金 10時から4時まで総持寺にて鑑定しております。

要予約の上、お越しください。